戊辰戦争の戦場となった寒河江と桑名藩軍兵士
更新日:2025年3月27日
戊辰戦争桑名藩軍戦没者の墓(寒河江市指定有形文化財)
戊辰戦争桑名藩軍戦没者の墓
市内本町の陽春院境内の大通り側に明治初期建立の2基の墓があります。これは、明治元年(1868)9月20日に寒河江で新政府軍と戦った桑名藩軍(桑名藩士を主体に唐津藩士等も含む)の戦没者の墓です。写真向かって右側が桑名藩士18名(越後加茂兵1名含む)の墓、左側が唐津藩士白水良次郎の墓です。これらの墓は、戊辰戦争において寒河江が壮烈な戦場となったことを物語るものとして、寒河江市有形文化財に指定されました。
寒河江での戦闘の経過
明治元年9月20日早朝、濃霧が立ち込める中、長崎(現・中山町長崎)方面から進撃してきた黒田清隆(了介)率いる新政府軍(薩摩藩・米沢藩)と寒河江に宿陣していた桑名藩軍が激突し、壮烈な市街戦が展開されました。
不意を突かれた桑名藩軍は、立見尚文(鑑三郎)率いる雷神隊、松浦秀八率いる致人隊が応戦しましたが、徐々に押され長岡山に後退。先に布陣していた庄内藩軍と合流し徹底抗戦しましたが、ついには長岡山を下り、左沢(現・大江町左沢)から救援に来た桑名藩神風隊と合流し白岩陣ヶ峯(現・寒河江市白岩)で寒河江川を挟み約2時間にわたり銃撃戦となりました。その後、寒河江川を渡り、慈恩寺で戦闘を繰り広げた新政府軍が迫り退却。桑名藩軍は夜通しで幸生(現・寒河江市幸生)から十部一峠を越えて肘折(現・大蔵村肘折)に抜けていきました。
戦没者の埋葬
寒河江の戦闘において、桑名・庄内藩軍、新政府軍双方とも多数の死傷者が出ました。残された遺体については、新政府方は間もなく収容されましたが、桑名・庄内藩方はしばらくの間放置されていました。これを憂いた陽春院19世薩雲大観和尚は遺体を収容し、懇ろに回向して境内の地蔵尊裏に一括して入棺し厚く葬りました。明治6年(1873)には唐津藩士白水良次郎の墓が建立され、明治8年(1875)には桑名藩士18名の墓が建立されました。
昭和36年(1961)に都市計画道路工事のため埋葬地移転を余儀なくされ、このときの発掘により激戦を物語る遺骨が次々と確認されました。昭和38年(1963)4月には桑名市から遺族が訪れ、分骨式を行っています。
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戊辰戦争桑名藩軍戦没者の墓(詳細資料)(PDF:861KB)
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