さくらんぼ大百科事典【さくらんぼの歴史】
更新日:2012年5月31日
さくらんぼの歴史(国内)
明治時代
年 | 事項 |
---|---|
1868年 |
プロシア(ドイツ)人、R.ガルトネルが渡島国亀田郡七重村、現北海道七飯町を開墾し、6本のさくらんぼをはじめ、多種の果樹・花卉等を試植した。 |
1872年 |
北海道開拓使庁において、アメリカ人ホラシ ケプロンの助言により各種果物苗とともにさくらんぼを導入した。 |
1875年 |
内務省勧業寮全国に苗木を配布。山形県にもさくらんぼの苗木3本が配布され県庁の構内に試植した。また置賜県にも2本配布された。 |
1876年 |
県令三島通庸、北海道開拓長官黒田清隆の手を通じて、さくらんぼ・りんご・ぶどうの苗木300本を取り寄せ山形香澄町に植栽。同行した本市内楯の井上勘兵衛により寒河江のさくらんぼ栽培が始まった。 |
1878年 |
県は産業試験場「千歳園」を設置(現在の山形東高敷地)し、勧業寮より果樹等を導入した。さくらんぼは98本。 |
1885年 |
県は地方産業の発展を目的とし、半官半民の「山形興業会社」を設立。県は三田育種場より24種の苗木を購入し、広く希望者に栽培させた。 |
1888年 |
山形興業会社種苗部の吉井賢太郎が、自園のさくらんぼを人力輸送により仙台に出荷。本多成允、渡辺藤右衛門が柴橋村(現在の寒河江市柴橋)に郡立農産物試験場をつくり、さくらんぼなど新しい作物を広げた。 |
1890年 |
山形県産のさくらんぼ、仙台から東北本線で東京へ出荷される。 |
1895年 |
井上勘兵衛、さくらんぼの缶詰作りを自宅で始めた。 |
1901年 |
奥羽線が山形まで開通したため、県外出荷が増え、栽培面積も急激に増加した。品種では、那翁が最も好評で、黄玉、若紫、日の出などが上位で続いた。 |
1907年 |
県農事試験場では、農商務省指定のさくらんぼ品種試験園として圃場を設け仏国種14、米国種26、在来種その他11計51品種について試験を実施。 |
1910年 |
山形県立農事試験場において、日本園芸会主催の桜桃名称一定協議会が開かれ、主要品種に和名をつけ、協定名称として発表。 |
七重官園(ななえかんえん)
明治元年、日本に初めてさくらんぼを導入したガルトネルは、渡島国七重村(現在の北海道七飯町)に農場を開き、果樹栽培をはじめとし本格的西洋農業を試みた。この開墾地は明治4年ガルトネルが去った後も、官園として北海道の農・畜・蚕業の基礎を築いた。
ホラシ ケプロン(1804年から1885年)
明治4年合衆国農務局長を辞し、北海道開拓頭取兼顧問として日本に赴任した。以来4年間、北海道開拓の基礎確立に貢献した。さくらんぼ、りんご、ぶどう等西洋の果樹をアメリカより導入し、わが国の果樹栽培の歴史に一大改革をもたらした。
三島 通庸(みしま みちつね)(1835年(天保6年)から1888年(明治21年))
山形県初代県令。薩摩出身。土木、教育、農業、県都造営等功績は数多く、山形県の土台を築いた。明治9年北海道開拓長官黒田清隆を通じ、さくらんぼ、ぶどう、りんごの苗木を導入し、試作した。明治11年には、試験場千歳園を開設し、新農業推進の足場とした。
井上 勘兵衛(いのうえ かんべえ)(1859年(安政6年)から1917年(大正6年))
明治9年、北海道開拓使庁より県が苗木を導入するとき同行し、苗木を譲り受け自宅に植栽した。明治11年より山桜を台木として苗木づくりをはじめ普及を図った。明治28年から自宅でさくらんぼの缶詰加工に着手し、苦心の末成功した。
本多 成允(ほんだ せいいん)(1847年(弘化4年)から1917年(大正6年))
鶴岡生まれの庄内藩士であったが、明治維新に家禄を失い、西村山郡役所書記となる。明治20年頃より自宅周辺でさくらんぼの栽培を試み、啓蒙普及に努めた。今日の本市隆盛の先駆けであり、さくらんぼの育ての親として知られる。のちに寒河江町長となる。
山形県農事試験場
明治41年に農商務省よりさくらんぼの品種試験圃として指定を受け、以来海外の多くの品種について試験を実施した。
大正時代
年 | 事項 |
---|---|
1912年 |
東根市の佐藤栄助、現在の主要品種「佐藤錦」の育成を始める。 |
佐藤 栄助(さとう えいすけ)(1867年(慶応3年)から1950年(昭和25年))
家は代々醤油醸造業であったが、株で財を失い、果樹園の経営を始めた。明治43年本格的にさくらんぼの県外出荷をはじめたが、実割れと腐れに困り果て、大正元年より品種改良を行い、現在の主要品種「佐藤錦」を作り出した。東根三日町生まれ。
岡田 東作(おかだ とうさく)(1881年(明治14年)から1954年(昭和29年))
中島天香園(東根市)を大正2年に創業し、りんごやさくらんぼの苗木を販売した。佐藤栄助の品種改良を側面的に支え、昭和3年作り出された優良なさくらんぼを「佐藤錦」と命名し、苗木を育成し拡販につとめた。
昭和時代
年 | 事項 |
---|---|
1928年 |
「佐藤錦」の苗木を東根市の果樹苗木生産者岡田東作売り出す。 |
1930年 |
県は県外移出に有望なさくらんぼ、ぶどう、なし、かきの植栽を奨励した。 |
1937年 |
寒河江に日東食品を誘致して缶詰加工を始めた。山形県のさくらんぼ全国的に有名に。 |
1940年 |
戦前最高の生産量、面積となる。 |
1943年 |
さくらんぼが切り倒され、豆や麦が植えられるようになった。 |
1950年 |
さくらんぼが再び盛んに植えられるようになった。 |
1952年 |
全国に先駆けて本市のさくらんぼを天皇陛下に献上。 |
1954年 |
寒河江市誕生。 |
1964年 |
さくらんぼまつりはじまる。 |
1966年 |
本市島に県立園芸試験場落成。 |
1969年 |
チクロショックで果実缶詰全体の需要が激減する。 |
1970年 |
米の生産調整が始まり、さくらんぼの栽培面積が急激に増え始める。 |
1971年 |
雨よけテントが本市で初めて開発される。さくらんぼまつり第1回全国俳句大会が開かれる。 |
1973年 |
さくらんぼ観光果樹園が三泉地区にオープン。 |
1977年 |
さくらんぼマラソン大会、さくらんぼ囃子パレードはじまる。市民さくらんぼ憲章制定。 |
1978年 |
アメリカ産さくらんぼがはじめて輸入される。 |
1982年 |
カナダ産さくらんぼ上陸。 |
1983年 |
成育期間の天候に恵まれ空前の生産量となる。 |
1984年 |
市の木「さくらんぼ」を制定。 |
1986年 |
さくらんぼ種吹きとばし大会はじまる。 |
1988年 |
本市とトルコ共和国ギレスン市が姉妹都市締結。 |
初期の出荷風景
昭和6年6月に撮影された三泉果樹組合の出荷風景。この年の本市さくらんぼの植栽本数は3,600本、収穫量75トン、価格は1キログラム10銭程度であった。当時のカレーライスの値段も1杯10銭であった。
缶詰加工
さくらんぼの缶詰工業は、昭和12年横浜から日東食品(株)を本市に誘致したことにはじまった。戦後、加工さくらんぼの需要が増え、市内には多くの食品加工会社ができた。最盛期には、出荷量の8割が缶詰用として利用された。
さくらんぼまつり
昭和39年に始まったさくらんぼまつりは、年を追う毎に盛大になり、種吹きとばし・マラソン・俳句大会・品評会等多彩な催しが繰り広げられ、6月の寒河江のまちはさくらんぼ一色となる。
雨よけテント
昭和44年、チクロショックが起こり果実缶詰全体の需要が激減し、加工から生食主体のさくらんぼ栽培へと転換を余儀なくされた。梅雨時に実割れのない完熟したものを出荷するため、昭和46年雨よけテントが本市で初めて開発された。
観光さくらんぼ園
本市では、春から秋にかけて種々の果実が生産されているが、都会の人達に収穫の喜びを感じてもらうため、昭和48年観光さくらんぼ園がオープンした。その後は、ブルーベリー・りんご・ぶどう等が開園し、一年を通じた観光農業に発展している。
ギレスン市との姉妹都市締結
さくらんぼは紀元前65年、トルコのギレスンからローマへ伝わり、その後ヨーロッパへ広がったといわれている。昭和63年「日本一さくらんぼの里さがえ」と「さくらんぼの原産地ギレスン」が姉妹都市の締結をおこなった。
平成
年 | 事項 |
---|---|
1990年 |
「さくらんぼの日」制定。 |
1991年 |
県立園芸試験場で育成された「紅秀峰」が品種登録。 |
1992年 |
国道112号線沿いにチェリーランドオープン。アメリカンチェリーの輸入全面解禁。 |
2001年 |
チリ産さくらんぼ輸入解禁。 |
2005年 |
オーストラリア産さくらんぼ輸入解禁。 |
さくらんぼ会館資料より
お問い合わせ
農林課 農業振興係
電話:0237-85-1753 ファックス:0237-86-7100
(代表)cherry@city.sagae.yamagata.jp
こちらのメールアドレスに頂いた問合せ等については、各課のメール
アドレスから
返信する場合がありますので、寒河江市のドメイン(@city.sagae.yamagata.jp)からの
メールを受信できるよう設定くださいますようお願いいたします。